わたしたちの身体的な特徴は農耕牧畜以降の環境に追いついていないといえるのです。
では、わたしたちの身体が何に対して適応してきたのかというと、農業以前の生活、つまり狩猟採集です。
たとえ洗練された服を着て最新の車に乗っていたとしても、その身体の構造と機能は基本的なところで狩猟採集をして暮らしていた数万年前の人たちと変わっていません。
このことがよく現れているのが、文明病はなぜ起きるのかという問題です。
糖尿病や高血圧、動脈硬化から引き起こされる心臓病、痛風などは先進国においてよくみられる病気ですが、これらは肥満が大きな原因となっています。
脂肪や糖類を多く摂取し、適度な運動が不足すると肥満になるわけですが、わたしたちの周りにはハンバーガーやフライドチキンのような味が濃く、脂肪分の多い食事、あるいはアイスクリームや缶ジュースのような甘いものがあふれています。
こういったものをおいしいと感じ、たくさん食べたいという衝動かあるからこそ売れているわけですが、将来的に肥満につながるのに、わたしたちはなぜそのような好みをもっているのでしょうか。
鍵は狩猟採集生活にあります。
熱帯サバンナの狩猟採集生活においては、動物性タンパク質の食事に占める割合はせいぜい四〇パーセントです。
また得られる食物には季節による変動があり、豊富な時期に多く摂取し脂肪として体内にためこんでおくことで、欠乏している時期を乗り切る必要があります。
おそらくわたしたちがもつ糖類や脂肪への好みは、このような生活への適応として形作られたのでしょう。
狩猟採集を続けていくうえでは有利な適応だったのですが、このような好みが現代文明社会のような、モノがあふれ、いつでも手に入るような環境におかれたらどうなるでしょうか。
このような、過去に働いたと考えられる淘汰圧と現在の環境とのずれの存在は、人間と環境の関係を考えるうえで非常に大切なことです。
人間はその知能によって短時間のあいたに生活様式を変え、周囲の環境を改変させることさえしてきましたが、それはあまりに急速すぎたのです。
環境問題というものは、わたしたちが環境をどう捉え、それについてどう考えているか、そしてその結果としての行動から起こるものです。
そのような、わたしたちの心の働きといったものも、農耕牧畜以前の環境への適応の結果としてあると考えられます。
心や行動が適応によって進化するというのはどういうことなのでしょうか。
次は、現代の人間の行動や心理を進化という観点から探る試みについて述べていきます。
あなたがある小さな工場のオーナーだとしてください。
あなたの工場では四人の従業員が働いています。
工場にはある雇用上の規則があり、それは「週末に働いた者は、平日に休みを取る」というものです。
さて、いまあなたの前にはそれぞれの従業員の労働状況について記録したカードがあります。
カードの片面には従業員が週末に働いたかどうか、もう片面には平日に休みを取ったかどうかが記されています。
あなたの前に並べられた四枚のカードにはそれぞれ「週末に働いた」「週末に働いていない」「平日に休みを取った」「平日に休みを取っていない」と書かれています。
四人のなかに規則に反している者がいないかどうか確かめるには最低限どのカードをめくればいいでしょうか。
では、今度はあなたがある工場の労働組合の役員だとしてください。
工場にはある雇用上の規則があり、それは「週末に働いた者は、平日に休みを取る」というものです。
あなたの仕事は、従業員の権利が守られているかどうか確かめることです。
さて、いまあなたの前にはそれぞれの従業員の労働状況について記録したカードがあります。
カードの片面には従業員が週末に働いたかどうか、もう片面には平日に休みを取ったかどうかが記されています。
あなたの前に並べられた四枚のカードにはそれぞれ「週末に働いた」「週末に働いていない」「平日に休みを取った」「平日に休みを取っていない」と書かれています。
四人のなかに規則に反している者がいないかどうか確かめるには最低限どのカードをめくればいいでしょうか。
これらふたつの問題の正解は同じです。
「週末に働いた」と「平日に休みを取っていない」の二枚をめくらなければなりません。
「週末に働いていない」という人はこの規則には関係ありません。
またこの規則は、週末に働いた人は平日に休みを取らなければならないのであって、平日に休みを取った人が週末に働かなければならないとは言っていません。
ゆえに「平日に休みを取った」というカードもめくる必要はないのです。
しかし、「週末に働いた」というカードの裏が「平日に休みを取っていない」では規則に反しますし、「平日に休みを取っていない」の裏が「週末に働いた」でも反することになりますから、論理的に考えればこの二枚をめくらなければならないわけです。
ところが、ドイツの認知科学者G氏らによると、最初の問題と二番目の問題のそれぞれを別々の被験者に答えてもらったときに、よく選ばれるカードが異なっていたのです。
雇用者側に立った被験者は、「週末に働いていない」と「平日に休みを取った」の二枚をよく選んだのに対し、従業員側に立った被験者は、まったく逆の「週末に働いた」と「平日に休みを取っていない」をよく選んだのです。
なぜこのようなことになったのでしょうか。
この問題は、認知科学において「四枚カード問題」と呼ばれている有名な問題を応用したものですが、人間の思考は決して論理的ではないということをよく示しています。
記号で書くと、この問題の規則は「PならばQである」というかたちで、カードは「P」「非P」「Q」「非Q」というかたちになっているのです。
もしわたしたちの脳がコンピュータと同じように働くのであれば、基本の論理は同じですから、どちらの問題もおなじように正解するはずです。
この四枚カード問題は、わたしたちの脳はコンピュータのように純粋に論理的に働いているわけではない、ということを教えてくれます。
わたしたちがこの問題を解くときには、論理的に考えているのではなく、社会契約を破った裏切り者を捜しているのだ、とG氏らは考えました。
人間の社会は、個体どうしが相互に協力しあうことによって成り立っています。
このような協力のしくみをつくりあげたからこそ、わたしたちは巨大な社会を築き、文明を発展させることができたのです。
協力関係を維持していくときに重要なのは、「代償を払っていないものは利益を得てはいけない」ということです。
代償を払わずに利益だけをもらう裏切り者がいれば、相互の協力関係は崩壊します。
人間が社会を築き上げ、維持していくためには、裏切り者を排除できるかどうかということが大きな淘汰圧になったと考えられます。
なぜこれらふたつの問題で選択したカードが異なっていたかというと、それぞれの立場で裏切り行為が異なるからです。
雇用者からみれば、従業員が「平日に休みを取ったのに、週末に働かない」ということが裏切り行為にあたります。
逆に、従業員の立場になってみると、「週末に働いたのに、平日に休みがもらえない」ということが裏切りになるのです。
それぞれの立場から裏切り者を探そうとした結果、チェックすべきカードがまったく逆になってしまったのでした。
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